警告文の刻まれた奈良飛鳥京苑池発掘の土器に刻まれた川原寺とは?

10月11日より奈良県立橿原考古学研究所付博物館で始まった特別展で

珍しい警告文の刻まれた土器が一般公開されている。

土器には、「取ったら災いが起きる」という意味の警告文が刻まれており、

7世紀の奈良県明日香村の国史跡・名勝「飛鳥京跡苑池(えんち)」から

2013年度の発掘調査で発見されたもの。

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橿原考古学研究所付博物館によると、土器は口径12.3センチ、

高さ3.1センチで7世紀末ごろに作られたらしい。

器の外側に

「川原寺坏莫取若取事有者□□相而和豆良皮牟毛乃叙−−」(□は判読不能)

などと漢字と万葉仮名が刻まれている。

「川原寺の坏(つき)であるから取るな。もし取ったら災いが起こるぞ」という意味らしい。

苑池は天皇の宮殿に付属する庭園で、外交使節らをもてなしたと考えられる場所。

川原寺は飛鳥川を挟んで西側にあった、飛鳥寺などと並ぶ重要な寺院だった。

【ネタ元 毎日新聞 最終更新 10月11日 18時42分】

 

なんかロマンがあるわーと思い、川原寺とは?どんなところなのか現存している

のかと検索したら、川原寺は川原寺跡となっており、現存してはいない。

こちらのサイトが川原寺について網羅しているので詳細を見たい方は下記へ。

http://www9.plala.or.jp/kinomuku/kawaradera.htm

要約すると、

川原寺は、飛鳥時代の天武天皇期には飛鳥寺、大官大寺とともに飛鳥三大寺として、

また持統・文武天皇期では薬師寺を加えて飛鳥四大寺に数えられ、朝廷に重用

されてきた大寺であった。室町時代に焼失しており、廃寺となっているが、

その伽藍配置から相当に大きく立派な寺であったことがうかがわれる。

この地がもともと斉明天皇の宮があった跡地であることからも宮廷と深い繋がりの

ある寺であると思われる。

しかし、当時、大官大寺、飛鳥寺とともに飛鳥三大寺に数えられ、その中でも

筆頭の「官」寺であったこの川原寺だけがその創建について日本書紀に記述が

なく謎のままである。理由はわからないが、藤原京から平城京へ遷都された時、

唯一この川原寺だけが移建されなかった。

川原寺跡の裏山遺跡から大量の塑像がみつかったことからこの川原寺は、

インドの仏教発祥の地ガンダーラ地方にあった石窟寺院と見まがうような

インド仏教の影響を色濃く受けた容貌の寺であったのではないか。

と実に謎多き寺みたいである。

ますます、ロマンを感じる~。

 

川原寺が平城遷都に際し、どうして平城京に移建されなかったのか、その謎を解く手がかりがある。飛鳥四大寺の中で、川原寺は異質の寺であったのだ。
インド仏教の影響を強く受け、それゆえに斉明、天武両帝の庇護を受け飛鳥仏教に独特の地歩を築いた。インド石窟寺院と見まがう異様な金堂。伎楽団、瑠璃の礎石。外国に向かって開かれた寺として大きな役割を果たした。山田寺や虚空蔵寺などの氏寺にも影響力を持った。それが天武天皇の宗教政策にも叶っていたからである。しかし川原寺は、その異端であることによって凋落の時を迎える。
すでに仏教はこの時代になると日本化の傾向をたどるようになる。飛鳥の諸大寺は平城への遷都を許されたが、川原寺はあまりに日本仏教の中で異質であり、人々の信を失いはじめていたのだ。かくして川原寺は飛鳥に残る。
「謎の大寺 飛鳥 川原寺」(網干善教/NHK取材班著)

 

前述のサイトで紹介されている文である。

歴史と自分がつながっていることを感じさせる品には実にワクワクさせられる。

最近は骨董の価値はお金に換算されがちだが、歴史とつながる自分というところ

が本当は「プライスレス」なのだと思う。

 

    
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